葛飾北斎の死因|何歳まで生きたか晩年や最後の姿を解説します

葛飾北斎の死因|何歳まで生きたか晩年や最後の姿を解説します

葛飾北斎は「富嶽三十六景」の作者として有名ですが、晩年の様子や死因についてはよく分からないという人が多いのではないでしょうか?

そこで本記事では、葛飾北斎の死因や晩年の状況について紹介していきます。

葛飾北斎とは?

葛飾北斎は、江戸時代後期の浮世絵師です。

日本美術史上、また世界の美術史においても非常に高い評価を受けている画家であり、版画家であります。

代表作として、「富嶽三十六景」や「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」、「凱風快晴(がいふうかいせい)」などがあります。

葛飾北斎の作風は時代によって変化しました。北斎は90歳近くまで現役で活動したため多様なテーマと構図を持つ作品を多数残しました。

西洋の印象派画家(モネやゴッホなど)にも多大な影響を与えたと言われています。

葛飾北斎は日本を代表する浮世絵師です。

葛飾北斎の死因は“老衰”

葛飾北斎の死因は、“老衰”と言われています。いわゆる“自然死”です。

一部には「栄養失調」や「病気による衰弱死」などの説もありますが、葛飾北斎の死因について、医師による診断記録などは無く、当時の弟子の日記や書簡にも特定の病名を記した記録はありません。

一方で、弟子・高井鴻山の記録には、葛飾北斎が死の直前まで創作意欲を保っていたことが伺えます。

葛飾北斎の晩年を知る弟子たちの証言や日記などから、葛飾北斎の死因については“老衰”による自然死であったのではないかということがうかがえます。

葛飾北斎の晩年、最後の姿

葛飾北斎の晩年と最期の姿は、絵への執念と孤高の創作精神に満ちていました。

生涯にわたり経済的に安定することはなく、90歳近くになっても質素な生活を送りながら創作を続けていました。居を転々とし、生涯で93回も引っ越したとされます。

北斎は90歳まで生きましたが、生涯に引っ越した回数はなんと93回と伝えられています。
小布施 北斎館 | 画狂人 葛飾北斎の美術館

娘・葛飾応為(おうい)に支えられながら制作に打ち込みました。

伝えられる最期の言葉は「天があと10年、いや5年の命を与えてくれたら、本当の絵師になれるのに」というものでした。死の間際まで創作への渇望を抱いていたことが分かります。 北斎はまさに“生涯現役”を貫いた孤高の絵師として、その最後の瞬間まで筆を離さなかったのです。

葛飾北斎の妻の死因は?

葛飾北斎の妻の死因は不明です。正確な記録が残されていないからです。

江戸時代の資料では、北斎の妻に関する情報そのものが非常に乏しく、名前や生没年、死因などの具体的な記録が残っていないからです。

北斎には何人かの子どもがいたことは分かっており、娘の葛飾応為(おうい)はよく知られていますが、彼女の母親についても詳しいことは分かっていません。ただ、当時は結核や脚気、出産に伴う合併症などが女性の主な死因であったため、北斎の妻も病死であった可能性が高いと推測されます。

つまり、北斎の妻の死因は不明ですが、当時の時代背景を考えると病死だった可能性が高いと考えられます。

葛飾北斎の墓は東京都台東区の誓教寺にある。

葛飾北斎は東京都台東区元浅草にある「誓教寺(せいきょうじ)」に埋葬されました。北斎の墓石には、彼が晩年に名乗っていた「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」という号が刻まれており、北斎の個性的な生き様や創作への執念が今でも伝わってくるようです。

葛飾北斎に関するQ&A

葛飾北斎に関するよくある質問は以下の通りです。

  • 葛飾北斎は脳卒中を患っていた?
  • 葛飾北斎はなぜ長生きできたのか?
  • 葛飾北斎の画号一覧は?
  • 葛飾北斎は何がすごいのか?

ここからそれぞれ解説していきます。

葛飾北斎は脳卒中を患っていた?

葛飾北斎が脳卒中(脳梗塞や脳出血)を患っていたという明確な医学的記録は残っていません。

北斎の晩年には、手の震えや動作の衰え、身体の不調が見られたとされており、これらは脳卒中の後遺症にも似た症状です。ただし、当時の医学的知識や記録が乏しく、正式な診断はされていません。

たとえば、90歳近くになっても絵筆を握っていた北斎は、ある時期から線が乱れることを自覚しており、「手が思うように動かない」と漏らしたという逸話もあります。これは加齢による衰えとも考えられますが、現代なら脳卒中やパーキンソン病なども疑われる症状です。したがって、北斎が脳卒中を患っていたと断定はできませんが、当時の健康状態や描写からは、何らかの神経系の障害を抱えていた可能性も否定できません。

葛飾北斎はなぜ長生きできたのか?

葛飾北斎が当時としては非常に珍しい数え90歳(満89歳)まで長生きできた理由は、正確な医学的根拠はありませんが、絵に対する情熱と規則的な生活、そして精神的集中が関係していたと考えられています。

彼は生涯にわたり「描くこと」に没頭し、年を重ねても創作をやめず、常に「向上心」を持ち続けていました。このような生きがいが、精神面の安定や生活リズムを保ち、結果として健康を維持できた要因と考えられます。

北斎は「あと5年生きられれば本物の絵師になれる」と晩年に語ったほど、生涯現役を貫きました。また、質素な生活を好み、欲を持たず、食事や生活も慎ましかったとされます。これは現代でいう「カロリー制限」「ストレス回避」にも近い健康的な習慣です。

つまり、北斎が長生きできたのは、絵に没頭することで心と体を健やかに保ち、規則正しい生活と精神的な強さが健康長寿につながったと考えられるのです。

葛飾北斎の画号一覧は?

葛飾北斎の画号一覧を以下の様にまとめました。

時期(おおよそ)使用画号説明
少年期(~20代)勝川春朗(かつかわ しゅんろう)最初の画号。勝川春章に入門して使う。役者絵を多く制作。
30代前半俵屋宗理(たわらや そうり)宗理派を継承。琳派風のデザイン的な作風。
30代後半北斎辰政(ほくさい ときまさ)「北斎」の号が初めて登場。ここから画風が多様化。
40代葛飾北斎(かつしか ほくさい)代表的な画号。以後も使い続ける。
50代戴斗(たいと)「北斎戴斗」とも名乗る。風景画や花鳥画が増える。
60代為一(いいつ)「画狂人為一」などとも名乗る。『冨嶽三十六景』の頃。
70代画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)晩年の代表的な号。老いてますます創作に熱中。
80代卍(まんじ)単に「卍」とだけ記すことも多かった。筆名的な扱い。

葛飾北斎は何度も画号を変えました。

それは、彼が画風を変化させながら、常に新しい挑戦と創作への意欲を持ち続けた証です。

「勝川春朗」から始まり、「葛飾北斎」「戴斗」「為一」「画狂老人卍」など、画号の変遷は彼の画風や時代背景と密接に関わっています。

つまり、北斎の画号の多さは、彼の生涯が「変化と進化の連続」であったことを物語っているのです。

葛飾北斎は何がすごいのか?

葛飾北斎が「すごい」と言われる理由は、一言で言えば日本美術史を変えた革新性と、世界に影響を与えた創造力にあります。彼は浮世絵師としてだけでなく、画家としても異彩を放ち、後世に計り知れない影響を与えました。

まとめ:葛飾北斎の死因は老衰だった

ここまで葛飾北斎の死因について解説してきました。

北斎の死因についてはさまざまな憶測もありますが、記録に残る正式な死因は「老衰」です。彼は江戸・浅草聖天町の長屋で亡くなり、最期の言葉として「あと5年、いや10年生きられれば、本当の絵師になれるのに」と語ったとも伝えられています。死の瞬間まで創作への執念を持ち続けた北斎らしいエピソードです。 北斎の死は単なる「老衰」ではなく、一人の芸術家が心身を尽くして生涯を全うした証とも言えるでしょう。今なお世界中で称賛され続けるその作品は、彼の生涯そのものの輝きを物語っています。