蔦屋重三郎の死因は脚気?最期の姿やお墓の場所を解説

蔦屋重三郎の死因は脚気?最期の姿やお墓の場所を解説

江戸の町なみ

蔦屋重三郎は、江戸時代に活躍した日本の出版者です。

葛飾北斎や喜多川歌麿などの浮世絵や、洒落本、黄表紙などの出版を行いました。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、横浜流星さんが演じたことでも話題となっています。

本記事では、そんな蔦屋重三郎の死因について詳しく解説していきます。

蔦屋重三郎の最期の姿やお墓の場所も紹介するので、ぜひ参考にしてください。

蔦屋重三郎の死因は脚気(かっけ)

蔦屋重三郎の死因は、脚気(かっけ)だと言われています。

1797年(寛政9年)に、47歳で亡くなりました。

脚気はビタミンの欠乏が原因の病気ですが、当時の江戸では白米を食べる習慣が根付いていました。

玄米から白米に精米してしまうと、ビタミンB1がほとんど含まれないため、脚気を引き起こす原因になっていたようです。

蔦屋重三郎の生涯を解説

蔦屋重三郎の生涯について、以下の年表にまとめました。

年代(西暦)年齢(推定)出来事
1750年頃0歳武蔵国江戸・浅草近辺に生まれる(正確な生年は不詳)。
1774年頃約24歳日本橋通油町にて蔦屋(出版業)を創業。書物の貸し本・販売を開始。
1770年代後半約25〜30歳浮世草子や黄表紙を中心に娯楽書の出版に力を入れる。
1782年約32歳山東京伝作『金々先生栄花夢』を出版し大ヒット。黄表紙ブームの火付け役となる。
1783年約33歳山東京伝の黄表紙を継続的に出版し、江戸庶民に絶大な人気を得る。
1785年頃約35歳喜多川歌麿を発掘し、浮世絵美人画を積極的に世に送り出す。
1786年約36歳鳥居清長の美人画も出版。美人画の黄金期を支える。
1787年約37歳松平定信による「寛政の改革」開始。出版物への規制が強化される。
1790年約40歳山東京伝の洒落本が摘発され、山東京伝・恋川春町らとともに処罰を受ける。蔦谷重三郎も出版統制違反で罰金刑。活動に大きな制約がかかる。
1790年以降約40歳〜規制下でも喜多川歌麿の美人画や役者絵の出版を続け、江戸文化の発展に寄与。
1795年約45歳勢いが衰え始めるが、出版活動を継続。脚気と体調不良が悪化し始めたと推測される。
1797年約47歳過労と脚気の悪化により死去。生涯を通じて江戸出版界に大きな足跡を残す。

重三郎は若い頃から本に親しみ、出版業に興味を抱いていたといわれています。

吉原大門前に「耕書堂」を開業し、出版活動を開始しました。

その後は、洒落本や黄表紙、狂歌絵本などを次々と刊行し、出版権の独占とビジネスの拡大を行いました。

1797年(寛政9年)に脚気(ビタミンB1欠乏)で死去しています。

蔦屋重三郎が受けた処罰とは?

蔦屋重三郎は質素倹約や風紀の引き締めを目的として行われた寛政の改革(1787年~1793年)によって処罰を受けました。

特に洒落本や黄表紙など、色恋や風俗を描いた作品は「風紀を乱す」として厳しく取り締まられています。

具体的な処罰内容としては、手枷をはめられて50日間自宅に謹慎させられたり、高額の罰金を取られるなどだったといわれています。

処罰後、重三郎は洒落本の出版を控えるようになり、代わりに浮世絵や絵本形式の出版へと重心を移しました。

蔦屋重三郎の最期の姿

蔦屋重三郎の最期の姿としては、出版活動を続けていたもののかつてのように時代の先頭に立って文化を牽引するような勢いは失われていました。

検閲の影と経済的な打撃によって、重三郎の創造性は確実に衰退していったのです。

また、重三郎の死因である脚気(かっけ)は、ビタミンB1不足により神経や循環系に障害を及ぼす病気です。

年齢としてはおよそ48歳前後と推定されており、比較的若くしてこの世を去りました。

蔦屋重三郎のお墓は東京都の正法寺にある

蔦谷重三郎の墓は東京都台東区の正法寺(しょうぼうじ)にあります。

元々は本堂裏に蔦谷家歴代の墓碑と重三郎の墓碑は、関東大震災及び戦時中の大空襲などによって失われました。その後、史料を元に1990年代以降に復刻されました。

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の放送により全国的に注目されており、ファンや歴史好きの参拝者が増えてきてます。

蔦屋重三郎に関するQ&A

蔦谷重三郎に関する、よくある質問は以下の通りです。

  • 蔦屋重三郎の子孫の現在は?
  • 蔦屋重三郎の妻は?
  • 蔦谷重三郎とTSUTAYAの関係は?

蔦屋重三郎の子孫の現在は?

蔦谷重三郎と妻・ていとの間に子供がいたとされていますが、現在の子孫は確認されておらず、実質的には断絶したと考えられています。現代の明確な直系子孫はいないとされています。

蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係は?

蔦谷重三郎と現代の大手書店チェーン「TSUTAYA(ツタヤ)」には、直接的な血縁関係や事業の継承に関係はありません。」名前の由来については、祖父の茶屋が「蔦谷」であったということ、江戸をリードした蔦谷重三郎に対しリスペクトの二つがあったとされています。

TSUTAYA創業者である増田氏の言葉には、「情報や文化を流通させ、人々の生活を豊かにしたいという想いは、蔦屋重三郎の生き方に通じる。」というのが有ります。

現代の「TSUTAYA」は、蔦屋重三郎の名を文化的象徴として借りているというのが正確な理解です。ビジネス的には全く別ですが、「文化を世に広める存在になりたい」という精神的敬意が込められている点が、両者をつなぐ唯一の関係です。

蔦屋重三郎の妻は?

歴史的な記録には蔦谷重三郎の妻の俗名(本名)の記録はなく不明です。大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では「てい(テイ)」という名前で、橋本愛さんが演じております。戒名としては、錬心妙貞日義信女(れんしんみょうてい にちぎしんにょ)が正法寺の過去帳に記されています 。

まとめ:蔦屋重三郎の死因は脚気という病気

蔦谷重三郎の死因は、当時江戸で広く流行していた「脚気」によるものと考えられています。過労により発症したのではないかと考えられます。

蔦谷重三郎は江戸を代表する出版人で、昼夜を問わず働き続ける過酷な生活を送っていました。当時、江戸の人々は白米中心の偏った食生活をしていたため、「脚気」が江戸で流行してしまいました。特に多忙な商人や出版業者の間では栄養管理が十分行き届かず、「脚気」になってしまうことが多かった様です。

蔦谷重三郎も例外なく、絶え間ない仕事と白米中心の食生活が重なり、「脚気」を発症したと伝えられています。「脚気」は当時の人々にとって重大な病気であり、進行すると心不全などを引き起こし死に至ることもありました。実際に蔦谷重三郎は晩年、体調を崩し、「脚気」が悪化したことが死因につながったとされています。

このように、蔦谷重三郎は過労に加え、当時の生活習慣病であった「脚気」を患い、それが死因となったと考えられています。