清少納言のエピソード3選!どんな人物だったか解説します

清少納言のエピソード3選!どんな人物だったか解説します

清少納言はどんな人物だった?

「清少納言」は、平安時代の代表的な女流作家「紫式部」と並び称される女流作家です。「清少納言」は平安時代の和歌名人36人(三十六歌仙と呼ばれる)の一人である「清原元輔」の娘として966年(康保 3年)ごろ誕生しました。一条天皇の中宮定子の女房として仕え、「春はあけぼの」で有名な「枕草子」の著者であります。

「枕草子」では、「いとをかし」(とても趣がある)という言葉を用いて季節や自然の機微、宮廷の華やさを、豊かな感性と鋭い観察眼で表現しました。

清少納言のエピソード3選

  1. 勝気で負けず嫌いだった。
  2. 明るく社交的な性格だった。
  3. 頭脳明晰で天才だった?

清少納言の有名なエピソードとしては、以上の3つがあげられます。

ここからそれぞれのエピソードについて、1つずつ詳しく解説していきます。

勝気で負けず嫌いだった。

清少納言の性格は勝気で負けず嫌いだったのではないかと想像できます。

著書「枕草子」の中にも漢詩の知識を用いて貴族たちをあしらったり、やり負かしたりするエピソードが複数綴られております。

また、「枕草子」に「何事も、人から一番に思われなくては何の意味もない。

二番、三番になるのは絶対嫌です。」といったことが記載されており、彼女の負けず嫌いな一面が感じ取れます。

明るく社交的な性格だった。

「枕草子」では清少納言が和歌や漢詩の知識を生かして、定子(ていし)や貴族たちと会話や歌のやり取りに興じる姿がたびたび登場します。

「中納言参り給ひて」の段では、ジョークで、隆家や定子を大笑いさせる場面が描かれいたりします。ダジャレも得意としていたようで「雨のうちはへ降るころ」の段では、ダジャレでやり返すシーンも見られます。
「5月のご精進のほど」の段では、調子に乗り過ぎた清少納言が藤原公信をからかうシーンがあります。陽気でお茶目な清少納言の性格が垣間みえるエピソードが「枕草子」には随所に描かれております。

頭脳明晰で天才だった?

清少納言は頭脳明晰で天才であったのだろうということは想像できます。枕草子に描かれているのは、豊かな感性であり、鋭い視点で観察された、生き生きとした文章が綴られています。

清少納言は感じた感性を美しい文章にして表現できる頭脳明晰で天才であることに間違いはありません。

「春はあけぼの」の冒頭分は、清少納言の感性の鋭さを感じます。「春と言えば何?」と問われて「桜」ではなく「夜明け」と、応える人は、さて、どれくらいいるでしょう。その「あけぼの(夜明け)」につづく文章は春の到来による生命力の隆起と息吹を感じます。

文章をもっての表現力においては、頭脳明晰で天才であったと言えるでしょう。努力家であったなら秀才になるのでしょうか。。。

そこは推し量ることができませんので、我々の想像や妄想で楽しむ分野になるかと思います。

紫式部とはライバルだった?

清少納言と紫式部はライバルであったという話もありますが、宮中で同時期に仕えることはありませんでした。清少納言が宮中から去ったあと紫式部が後任のような形で仕えました。清少納言は優秀で女官を良くまとめ品格がありながらも楽しめる文化サロンを作っていたようです。男性貴族からも評判だったそうです。

紫式部はその清少納言の後任として入ってきたため、比較されていろいろと悔しい思いをしたようです。

『紫式部日記』に記されている、清少納言への批判は、紫式部の嫉妬であり清少納言への一方的なライバル視から来ているものであろうと思われます。

性格の不一致で離婚していた。

彼女の夫は陸奥守だった橘則光(たちばなののりみつ)という人でした。彼とは離婚をしていたそうです。夫が浮気したわけでもなく、また、清少納言が自立したいといって家を飛び出したわけでもありません。真相は、どうやら清少納言との結婚生活に耐え切れなくなった夫橘則光のほうが、離縁を申し出たようなのです。

何となく察せられませんでしょうか。清少納言は「枕草子」の中で機知に富む彼女の姿がえがかれています。知識をひけらかし虚勢を張るタイプのような女性だったように読み取れます。自分自身を持ち上げる性格には、橘則光ならずとも我慢できなかったのではありますまいか。世の男性方は様々と思います。女性、奥方に何を求めるかは各々思いの違いはあると思いますが、橘則光からすれば窮屈な思いをしていたのではないかと察せられます。

清少納言と中宮定子とのエピソード

清少納言は、一条天皇の后(きさき。天皇の正妻)である藤原定子(ふじわらのていし/ふじわらのさだこ)に、お世話役や家庭教師の女房として西暦993年頃~1001年頃まで約7年間つかえました。

このあいだに清少納言が10歳ほど年下の定子と親密な関係を築いたことが『枕草子』に綴られた、数々のエピソードから垣間見ることができます。

清少納言は定子のやさしさと高貴な美しさに心をつかまれ、聡明で明るい定子は才気にあふれてさっぱりとした性格の清少納言と気が合い、少しずつお互いを認め合い親しくなっていったようです。ふたりのユーモアの感性が合っていたことも「枕草子」の一節から読み取れます。

そんな相思相愛の関係にあった清少納言と定子だったのですが、ふたりは半年以上も離れていた時期がありました。清少納言が出仕した1年半後、一条天皇の中宮(天皇の正妻)の定子に不遇が生じます。

定子の父・藤原道隆(ふじわらのみちたか)が亡くなり、兄弟の藤原伊周(これちか)らが叔父の藤原道長との権力争いに敗れ、定子はうしろ盾を失ってしまうのです。その結果、定子は失脚してしまったのです。

そのさなか、清少納言は同僚の女房たちから道長に寝返ったのではないかと疑われてしまいます。この時の定子と清少納言を繋ぐ強いきずなを思わせるエピソードが「枕草子」の「殿などのおはしまさで後」「御前にて人々とも」の段に綴らています。

同僚からの冷たい視線に耐えかねて一度は宮中を出た清少納言ですが、そんな清少納言の心を動かし宮中勤めへ復帰させたのは、やはり定子だったのです。

定子の変わらぬ自分への信頼を知った清少納言は自身の覚悟を決め、定子の下での宮仕えに戻ったのです。

そんな決心復帰した清少納言に対して、定子は「新参者ですか?」と戻った清少納言をからかいながら、昔と変わらない優しさで彼女を迎え入れたそうです。まさしく清少納言と定子の深い信頼関係を思わせるエピソードだと思います。

清少納言が書いた『枕草子』は、もともと苦しい状況にある定子を元気づけるために清少納言が、書き始めたものとされています。

清少納言は定子に楽しんでもらおうと、つらいことは書かず、日々の面白いこと、華やかだった時代のことだけを自分自身の感性と表現力で綴っていったのが『枕草子』という文献になります。

清少納言と定子は『枕草子』を読んで、お互い、昔の楽しい日々を思い出したり、笑いあったりしたのかもしれません。そんな光景を思い浮かべるとほほえましく感じます。

清少納言の死因は?

清少納言の死亡時期:1025年と言われています。

清少納言の誕生時期:966年と言われていますので清少納言の最期の年齢は約60歳と推測されます。平安時代当時だとかなり高齢なので、清少納言の死因は病死や寿命と考えるのが自然かもしれません

まとめ:清少納言のエピソードは面白い

清少納言は社交的で知識豊富な女性であったことは間違いないでしょう。女房として仕えた定子との親密な人間関係に強く人情味を覚えるところがあります。良い主従関係の中で過ごせた清少納言は幸せな人生を送ったのではないでしょうか。