安倍晴明の死因は?最期(晩年)の様子も解説します。
平安時代のカリスマ陰陽師として有名な安倍晴明。死因は何だったのか?最期(晩年)の様子はどうだったのか?気になる方もおられるのではないでしょうか。
そこで本記事では、安倍晴明の死因や最期(晩年)の様子について詳しく解説していきます。
安倍晴明にまつわる伝説についても解説いたします。
安倍晴明とは
安倍晴明とは平安時代のカリスマ陰陽師として有名な人物です。
陰陽道や天文道を極め天皇や貴族たちから高い信頼を得て、陰陽師としての地位を確立していきました。公卿の藤原行成の日記『権記』(ごんき)には、晴明を「(陰陽)道の傑出者」として賛辞が記されています。他にもこの時代の有力者が残した日記や歴史書には晴明にまつわる記録が残されています。晴明が貴族たちから得た信頼が大きいことが伺えます。
陰陽師の重要な政務は卜占(ぼくせん)です。いわゆる占いでした。晴明の卜占(ぼくせん)や禁忌管理(占いの結果による禁止行動や制限など)は抜群の的中率だったと伝えられており、数々の伝説が残されています。また、晴明は天体や気象を観測する「天文博士」でもありました。一方で、式神使いであったとの伝説もあります。
安倍晴明は、数々の伝説を残すほど有能な陰陽師でした。上級貴族から高い信頼を得て平安時代に活躍をしたカリスマ的な陰陽師です。平安京大内裏の土御門(つちみかど)に家があったことからも、朝廷の晴明へ信頼の高さが伺えます。
安倍晴明の死因
安倍晴明の死因ははっきりしていません。
詳細のわかる史料が残っていないのです。
ただ長生きしたことは確かなようです。生誕921年で、死没が1005年ですから、83~84歳くらいまで生きたと考えられています。平安時代の平均寿命が40歳~50歳のこの時代。かなり長生きをされたと言えるでしょう。
平安時代のこの時代に84歳くらいまで生きたということは、安倍晴明はかなり長生きをされたことは間違いなく、また没年まで諸行事を行うなど現役として活動しています。詳細な死因は不明としても天寿を全うされ老衰などで亡くなったのではないかと、推測してしまいます。一方で令和の現代の平均寿命が80歳台だということを考えると、今の年齢に換算すれば倍の150~160歳まで生きたということになります。そう考えるとすごいですね。狐の子だと言われるのもうなずけます。
安倍晴明の最期(晩年)の様子
安倍晴明の晩年は没年まで生涯現役で活動していたようです。
安倍晴明は64歳にして時の権力者である藤原兼家(道長の父)に取り立てられ、遅まきながら出世街道を登っていき、やがて藤原道長の厚い信任を得るようになります。
晩年は藤原道長の信任が厚く、80歳で従四位下、82歳で大膳太夫・左京権太夫に任じられ、84歳のとき道長のお供で宇治に行ったりしてます。また没年まで諸行事を行うなど晩年も現役として活動していたようです。
安倍晴明の晩年は、時の権力者、御堂関白藤原道長の絶大な信頼を背景に陰陽師としての覇権を固め没年まで現役で活動していたようです。
安倍晴明の伝説 ・逸話
安倍晴明の伝説・逸話は数多く残されています。
主な伝説としては、安倍晴明は“化生の者”であるという伝説があります。晴明の母は和泉国信太の森の狐、「葛の葉」という白狐だとされています。他にも式神使いであったという伝説も有名です。
晴明神社には、伝説・逸話が紹介されています。以下のLinkを参照してください。
安倍晴明には幾多の伝説・逸話があります。当時の貴族たちの日記などに記載されているものもあれば、後世、安倍晴明の子孫たちが賀茂氏との陰陽師の覇権争いのため脚色したものもあるようです。いずれにしても楽しめればよいのかなと思います。
まとめ:安倍晴明の死因ははっきりと分かっていない。
安倍晴明の死因ははっきりと分かっていません。
84歳~85歳まで生きており、平安時代にしてはかなり長生きをした人物です。
晩年においても没年まで諸行事を行っており生涯現役で活動されていたようです。
生涯を通して精力的に諸行事を行い、天命を全うされ眠るように亡くなられたのではないでしょうか。